越後米沢街道・十三峠交流会

■手ノ子

以下、十三峠に関係するバードの記述を記載しますが、時間軸が前後しますので上のタイトルと一致しない部分があります。

『上山にて』
(※手紙は続きでない場合、ほとんどは月日の後に○○にてと表記しているが、上山では月日の記載はない)

7月13日 宇津峠、手ノ子
 市野々を出て間もなく『荷を積んだ何百頭もの雌牛に出会いましたが、どれもみな同じように美しい品種で、4頭ずつの列になっていました。』〔4頭ずつ隊をなしていた〕(高梨健吉訳)
 この文章からは横列か縦列か明確ではないが、往時の道幅は部分的には相当広かったものと思われる。それを証明する悪路の改修工事のことが「関川村史」に載っており、1間の道幅を3間に広げ道の両側に側溝をつけ、泥道になる場所には2360枚の石を敷いたことが記されている。

 手ノ子では『ここで伊藤はぞっとする料理を7皿とり』とある。宇津峠の手ノ子側入り口には農業井上源司さんの旧家があった。昭和12、3年頃までもちを作って旅人に出す茶屋をしていたとのことであり(朝日新聞)、伊藤が食べた“ぞっとするもの”とは「納豆もち」ではないかという説がある。

  『この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸1時間わたしをあおいでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。』
 市野々を出た時点では晴れており、蒸し暑さに我慢しながら馬の背に載り宇津峠を越えたのであろうが、地図にも載っていない十三峠の難所を過ぎた安堵感と、手ノ子の親切な人々に感激したのであろう。
  『わたしは日本のことを覚えているかぎり、あなたがたのこともえ忘れませんと心に思うままを言い、彼らの親切心にとても打たれつつ旅を続けました。』と最大の賛辞を惜しまなかった。

↑宇津峠部会で整備した「イザベラの道」。

↑宇津峠部会が整備した「バード遠望地」からの眺望、バードも眺めたのか。

 『宇津の高い峠はいくつもの石段を上り下りしますが、これがぎっしり連なる尾根の最後の峠です。わたしは歓迎してくれるような陽光を浴びたその頂上から雄大な米沢の平野をいそいそと眺めました。この平野は長さが約30マイル(約48q)、幅が10から18マイル(約16〜29q)あり、日本の庭園のひとつです。』

 今は、木々を伐採し中腹から一部平地を見ることができるようになっているが、頂上近辺から見えるのは山並みのである。ましてバードが通った7月は木の葉が混み合い平野を眺めることは難しい。
 バードは「アジア協会紀要」や、その中のダラスの「置賜県収録」を旅中持参し、時折り目を通しながら旅をしているため、平野の大きさや日本庭園のひとつなどの記述はダラスが書いた文章の引用である可能性がある。




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