越後米沢街道・十三峠交流会

■黒川〜沼

以下、十三峠に関係するバードの記述を記載しますが、時間軸が前後しますので上のタイトルと一致しない部分があります。

  >7月10日 新潟〜黒川
  >7月11日 黒川〜川口
  >7月11日 川口〜沼
  >7月11日 沼泊


7月10日 新潟〜黒川

中条(東本町)の稲荷神社
 7月10日新潟を小舟で出発し6時間かけて木崎に着く。そこからクルマ(人力車)3台で築地、笠柳、真野、真里、中条と進む。この間は『空気は前より乾燥し心地良くなってきました。』とあるが、中条を過ぎる辺りから霧雨となる。神社の祭りで賑わっている黒川の町を過ぎ、ある一軒の宿に泊まる。
 バードは黒川の神社の祭りと記しているが、現在はこの日(10日)に黒川での祭りはなく、中条の稲荷神社の誤りか。この神社は古道のすぐ道脇であり、舞台で踊る舞も見えたかと思われる。

 7月11日宿を出てから川口までのルートについてバードは触れておらず確定できないが、一般的に考えれば坂町・大島を通ったものと思われる。しかし、黒川の町を過ぎた所という表現があり、更に、黒川の先何マイルかは湿った谷間をとって、と記述してある。湿った谷間とは何処なのか、胎内川に沿って遡り坪穴(胎内川右岸沿いの約5マイル先)あたりに泊まった可能性は考えられないか。でないと湿った谷間などは見当たらない。夜中に太鼓の音は聞こえる距離ではないのだが。

7月11日 黒川〜川口
 『その日わたしたちはクルマで関を通り川口まで来ました。つまり何度か石にどんと当たったり、湿地の縁に出て、降りてくれと言われたり、あるいは荒川の上にある悪名高い馬道では一度に2、3マイル(約3〜5q)歩かされたりしました。荒川の上流では、車夫ふたりでかかっても一台の空のクルマを満足に押したり引いたりはできませんでした。しかもクルマ全体を持ち上げてしばらく運ばなければならないことが頻繁にあったので、川口の村に着いて車夫がもうこれ以上は走れないとわかったときは本当にうれしく思いました。』

 関(下関)には豪商農である渡邊三左エ門邸などについては言及していない。ここを通る頃は雨の中で四苦八苦しての旅であり記憶に留める余裕がなかったかも知れない。 『とはいえ、馬が一頭しか調達できず、わたしは最後の旅程を滝のような雨の降るなか、防水紙の合羽というお粗末ないでたちで歩かなければなりませんでした。』
 バードは川口から沼まで調達した馬に荷物を載せ、自分は雨の降る中歩いて鷹巣峠、榎峠を越えることになる。 。

7月11日 川口〜沼
 『わたしたちはいま日本の中央大山脈のふところにいます。この山脈は900(約1440q)マイルにわたって』奥羽・中央山脈のことをいっているようであるが、いよいよ十三峠越えの始まりです。
 『村落はこれまで見たこともないほど孤立しています。この地域は道路事情が悪いのでほかの地方から遮断されています。(中略)昨夜わたしたちが黒沢(沼)に着いたときは、それがズボンだけに減っていました。(中略)これら山間の村に学校はありません。』
 黒沢は沼の間違いであるが、このあたりから記述の間違いや文脈の乱れが多くなり、疲労困憊によると思われる混乱ぶりが目立ってくる。

 また、『これら山間の村に学校はありません。』と記述しているが、バードは7月29日小繋で、それは間違いであったと記している。現に沼では明治8(1875)年に沼の伊藤惣五郎宅を仮校舎として沼校を開校している。(関川村史)
 また、黒沢の子供達は明治8年4月29日に種沢の龍正寺に寺子屋が設置されたため、11人の生徒が貝淵峠を越えて通った。他集落の生徒を含め30人が教育を受けていた。その後、明治12年に分校が建設された。(小国町史)
 飯豊の各村でも早いところでは明治6、7年に教育を始めており(飯豊町史)、バードの訂正文は正しいことが分かる。

7月11日 沼泊
 『沼の坂道の下には増水した川が流れ、人々は水が入らないよう家のまわりに土嚢を積んでいます。わたしは濡れて疲れていましたが、一軒の粗末な宿屋の女性は「悪いけれども、ここはとても汚くて、立派なお客様にはとうていふさわしくない」と言うのです。』
 民家の脇には沼川が流れている。現在は大部分が護岸工事されているが、記述の内容は今でも容易に想像できる。
 当時沼には三軒の宿屋があったという。孫惣(まごそう)の古老によれば、義母から「昔、髪の毛や目玉の色が違う女がやってきて泊まったんだ。その夜はおっかなくて寝られなかった」とか、「鶏をつぶして喰った」とか聞かされた、という話が伝わっている。
 孫惣の本家は当時片倉屋(伊藤家、現在米国に在住)という宿屋を営んでいた。その当時、玉川のジンベから片倉屋に嫁いできたチンさんの話として語り継がれてきたということである。
 車峠では鶏に逃げられ喰い損ねたが、沼では語り継がれている話が本当であれば、日光を発ってから金山で始めて鶏を食べた話は偽りになる。




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