越後米沢街道・十三峠交流会

■小松

以下、十三峠に関係するバードの記述を記載しますが、時間軸が前後しますので上のタイトルと一致しない部分があります。

7月13日 小松

↑バードが泊まったといわれる西永十 建物は当時と異なっている。

『宿屋の表はみすぼらしくて期待は持てそうにありませんでしたが、この家を貫いて走っている小川に架かった石橋を渡って裏に行くと、(中略)庭には金魚の泳ぐ大きな池』

 バードが泊まった宿は「西永十」といわれている。庭の脇にあった庭石が往時を偲ばせてくれる。
 『日曜日を小松で過ごしましたが、池の蛙が夜鳴いてうるさく、あまり休息とはなりませんでした。(中略)宿のご亭主がわたしを養蚕農家に連れて行ってくれました。』バードは敬虔なクリスチャンであり、この旅中も日曜日は安息日に充てている。小松では養蚕を見学し、その様子や養蚕に関る一連の過程を詳しく記している。

 また、小松はバードの紀行文を初めて広く紹介した「日本奥地紀行」(平凡社)著者である高梨健吉氏の故郷である。

 『ここではじめてわたしは日本の恐ろしい荷馬に出会いました。』
 馬が下駄や大勢の人に驚き暴れて綱を切ってしまう。この時、伊藤の馬も同じように後脚で立ち伊藤は地面に落ちている。この他にも同じように、横手では凶暴な馬に出会い『わたしは痛みと怖さでぶるぶる震えていまいました』。 碇ヶ関での記述には、落馬し目から火花が出て、息ができなくなったと記しており、馬には散々な目に遭っているようである。

 バードは『米沢の平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉の町、赤湯があって、申し分のないエデンの園で、鋤ではなく画筆で耕されて」おり、(中略)微笑みかけているような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディアです。(中略)吉田は豊で繁栄しているように見え、沼は貧しくみすぼらしいものの』
 確かに山間地と平地では環境に大きな違いがあったことは容易に想像できるが、バードは7月29日大館で『わたしが土地土地から受けた印象も、きっと天候に左右されていることでしょう』と記している。
 豪雨の中、難儀し越えた十三峠、濡れた着物を着て旅を続ける状況から一転し、峠の無い平地を馬の背に揺られながら進めば、これを超える旅の楽しさは先ずは無い。
 『舟で川を一本渡ったあと津久茂に入ると(中略)道路に沿って電信柱も立っています。突然新しい世界に出てしまったのでした。(中略)この道は何マイルにもわたって身なりのいい徒歩の通行人、人力車、荷馬、荷馬車で込んでいました。』と十三峠とは別世界となる。
  人力車が小国に姿を現したのは、明治17年10月に行われた「小国新道落成開道式」に、高官が二人引きに乗って来たのが最初といわれている。(小国町史)


↑洲島の板碑。舟をロープでつなぐ石として使われた。
バードもこの板碑を見て津久茂に渡ったのか





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