越後米沢街道・十三峠交流会

■伊藤鶴吉

伊藤鶴吉(1857〜1913)

 神奈川県三浦郡菊名村出身、後に「横浜通訳協志会」会長となり当時の通訳の第一人者として活躍。
 大正2年1月6日胃がんのため横浜の自宅で逝去、享年57歳。

       (イザベラ・バード紀行「日本奥地紀行」の謎を読む 伊藤孝博著 要約)
  >イザベラ・バードとの出会い
  >人柄、風貌
  >バードの旅と通訳者


イザベラ・バードとの出会い
 バードは横浜で通訳兼従者を雇うためにヘプバーン博士(1815〜1911)立会いの下で応募者と面談を行い、三人目の応募者と契約しそうになったところへ、四人目の応募者である伊藤がなんの推薦状も持たずに現れる。以前植物採集家のマリーズ氏と東北や北海道を旅したことがあるという。(後で伊藤の背信行為がばれる)
  バードは伊藤を信用できず気に入りませんでしたが、伊藤にはバードの英語が分かりバードには伊藤の英語が分かる。早く旅に出たいこともあり伊藤を月12ドルで雇うことにし、伊藤の頼みで一カ月分の賃金を前払いした。

人柄、風貌
 伊藤は18歳(20歳という説もあり)で身長は150p足らず。
 『がに股ながら、よく均整のとれた頑丈そうな体躯の持ち主です。顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と細い目をしています。それに重そうに垂れたまぶたはまるで日本人によくあるまぶたを戯曲化したようです。』
  『伊藤はその割におしゃれがえらく好きで、歯を白くしたり、鏡の前で丁寧に顔に粉をはたいたり、日に焼けるのをひどく嫌がったりするのです。手にも粉をはたいていますし、爪を磨き、外に出るときは必ず手袋をはめます。』
 旅の途中(藤原)では、『伊藤はとても頭がよく、いまでは料理人、洗濯人、一般的なお供、それにガイドと通訳をすべて兼ねるほど有能で(中略)彼は強烈に日本人的で、その愛国心には自分の虚栄という弱みと強みがしっかりとあり、外国のものは何でも劣ると思っています。』
 また、週に一度長い手紙を母宛に送っているし、送金もしており親孝行な若者といえる。旅行中の唯一の楽しみは夜の按摩だったという。

バードの旅と通訳者
 伊藤は頭がよく、旅支度などは指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力を遺憾なく発揮している。 酒は飲まず言い付けに従わないことは一度もなく、同じことを二度言う必要は全くないとバードは記している。
 伊藤という通訳者無しでは今回の旅は成し得なかったかもしれないし、バードの手紙も内容は乏しいものになったことが想像できる。
 バードは函館で伊藤と別れるときこう書いている。
『愉快な蝦夷の旅を終えるのがひどく心残りで、(中略)この若者と別れるのがとても残念だったのです。』
『今日は大変残念に思いつつ、ついに伊藤と別れました。伊藤は私に忠実に仕えてくれ、(中略)わたしは既に彼を恋しく思っています。』  


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