越後米沢街道・十三峠交流会

■沼〜小国

以下、十三峠に関係するバードの記述を記載しますが、時間軸が前後しますので上のタイトルと一致しない部分があります。

  >7月12日 沼〜市野々
  >7月12日 沼〜小国


7月12日 沼〜市野々
 『なによりもひどいことに、ここ(沼)には駅逓所がなく、村には馬が一頭もいません。翌朝農夫を5マイル離れたところへ送り、かなり長い交渉のすえようやく一頭調達できました。』とある。

 沼から市野々までは十三峠の半分近くの峠を越える必要があり、途中で一泊しないと無理では、と考える方も多い。しかも、沼では5マイル(約8q)離れた所(下関?)から長い時間交渉し一頭の馬を調達してからの出発である。その後も、途中玉川では2時間交渉、小国では荷牛探しと雨宿り、黒沢でも1時間余り考え事をしたと記しており、途中で4時間程度ロスしたことになる。通常のペースでは約8時間程度の道程であるから、都合12時間程度要するはずである。
  計算上、沼を朝8時に出たと仮定すれば夜8時頃には市野々に着くことになる。

 市野々で早朝にでも記したものか記述の最後には『きのう旅した道のりは12時間かかって18マイル(約28.8q)!』とある。日照時間の長い季節でもあること。黒沢峠を暗がりに越えていること。12時間かかったと記していることなどを考えるとバードの記述に誤りはなく、北日本の旅の中でも十三峠、特に沼から市野々間は最も難儀した行程のひとつだったと思う。

7月12日 沼〜小国
 『日本で戸数から住民数を推定する際、普通戸数に5を掛けますが、好奇心に駆られて沼の集落内を歩き、日本の家屋ならどこでも住居者の名前と人数と性別を書いて外にかけてある表札を伊藤に約してもらいました。すると戸数24で住民数は307になりました!』
 10年前(慶応4年)の戊辰戦争で沼集落は一軒を除き火災で家屋を焼失している。家を建てられない人々が親戚に身を寄せた可能性もあるが、明治15年の調査では16戸に122人という結果がある。更に表札の精度的な問題も考えられる。
 バードは横浜に入港後し函館に着くまでの間、400字詰め原稿用紙にすると1日平均10枚(翻訳文で)を超える文章を残している。凡人には想像できない計り知れない能力の持ち主である。

↑榎峠にある無名戦士の墓

 榎峠の頂上下の杉林の中には、戊辰戦争で亡くなった戦死者の供養塔がひっそりと眠っている。この供養塔は、弘長寺の63世順誉良成和尚が建てたものである。
 この戦闘で米沢兵の戦死12名、行方不明8名、新政府軍側戦死者1名とある。(関川村史)
 8月28日、沼で一軒だけ焼け残った船山久助宅(現当主 稔氏)にて和睦が成立する。
 『玉川の村で馬から下ろされ、米商人が3日間粘ったあげくこのあたりの馬を一頭残らず持っていってしまったと言われました。2時間交渉したすえ、荷物の運搬人ひとりが見つかり、荷物の一部を米用の馬に載せ、荷鞍をつけた馬一頭のかわりに丸々太ったとても小さな雌牛がわたし用に調達されました。この牛はわたしを乗せて雄大な大里の峠(朴ノ木峠)を無事上り下りして、田んぼのなかにある小国の町に着きました。溺れそうなほど雨が降っており、わたしは荷牛がもう一頭見つかるまでおおぜいの人夫とともに囲炉裏のそばで雨宿りできるのがうれしかったものです。』

 梅雨の中での旅であり、バードは日光から青森までの至る所で大雨によって濡れている。 大館では『雨が徐々に衣服にしみとおり(中略)あすの朝はまた濡れた服を着なければならないとわかっているのですから。』と記している。大雨の中、防水紙の合羽という出で立ちのバードは、恐らくここでも着物や編み上げ靴は勿論、身体も濡れて思考力が低下していたことが考えられ、また峠名が入れ替わっている。
 小国町のどこで雨宿りし感激したのか言及していないが、朴ノ木峠の麓で、この後通る高鼻峠の基点である小坂(本町)であろう。この地区は問屋、馬差、宿屋が集中していたが、明治9(1876)年5月に、八木沢近くの3軒を除き家中屋敷手前までの本町通りの両側114棟(小国町誌資料)その2年後のことであり通常の町並みではなかったと思われるが、言及していない。

  『やむをえず触れずに終わってしまった重要なことがらは多い。』との記述もある




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