越後米沢街道・十三峠交流会

■黒沢

以下、十三峠に関係するバードの記述を記載しますが、時間軸が前後しますので上のタイトルと一致しない部分があります。

7月12日 黒沢
 『そのあと田んぼ地帯を歩き、ついでふたたび山に入って黒沢に向かいました。』
 当時、小国から黒沢へのルートは、
@ 高鼻峠〜杉沢・種沢を通り貝淵峠を越えて黒沢に至るルート
A 小国〜岩井沢〜町原〜松岡を通り黒沢に至るルート
の二つがあった。
 Aのルートである松岡・黒沢間の横川には明治8(1875)年には2代目の橋が架かっており、住民はAのルートを主に使っていたと考えられる。
 バードの記述には『ふたたび山に入って黒沢に』とある。ここでいう「山」とは貝淵峠のことで、@のルートで黒沢に来たことは間違いないと思われる。

↑貝淵峠方面から撮影された黒沢集落入口。右に曲がると村上屋。

 『黒沢で泊まるつもりだったのですが、宿屋が一軒もなく、旅人を泊めてくれる農家はマラリアを多発しそうな池の端にあって』
〔私はそこ(黒沢)に泊まろうと思っていた。しかし宿屋はなく、しかも旅人を泊める農家は、不健康な池の端にあり〕(高梨健吉訳)

 黒沢には江戸時代から保科重作(川崎屋)、保科林助(村上屋)、保科義昌(小槌屋)の3軒が宿として営業していた。
 『宿屋が一軒もなく』については、黒沢は間宿であり、旅人の休息・休憩が主で一部宿泊に供することはあっても本宿のように本格的に旅人を泊める宿ではなかったものと思われる。
 後述するが本宿である市野々でさえも『不吉そうな農家しか泊まれるところはなかったので』と記している。

 『旅人を泊めてくれる農家はマラリアを多発しそうな池の端にあって』、この情景は当時の村上屋にそのまま一致するもので、この池には「はせ木」の突っ張りや「青苧」などを漬けていたので決してきれいな池ではなかった。『わたしは石に腰を下ろし、一時間あまり人々について考えました。』とある。

↑昭和中ごろの村上屋。手前中央の道脇に池があった。
 『暗くて目鼻のちくちくする煙が充満しているのはべつとしても、ひどく汚くて害虫がいっぱいおり、くたびれはてているにもかかわらず、わたしは先へ進まざるをえませんでした。』
 極悪な環境であることを記しているが、これはここだけのことではなく、山間集落についての記述も大同小異である。『くたびれはてているにもかかわらず、わたしは先へ進まざるをえませんでした。』宿泊についての交渉には言及していないので、このまま文章を解釈すれば「汚くて害虫がいっぱいいて泊まらなかった」ということになるが、果してそうだったのか。「汚くて害虫がいっぱいいる」意味の記述は他にもたくさん出てくるがバードはそれでも泊まっている。
 バードの文章にあるように往時の東北地方はどこでも養蚕が盛んであった。村上屋も例外でなく、家族が寝る部屋以外は蚕がいっぱいで、泊まる部屋がなかったことも考えられるがバードの真意は分からない。

 『とはいえあたりは暗くなりつつあり、駅逓所はないうえ、人々がはじめて値段をふっかけてきたので、伊藤はもう少しで困りはてるところでした。農民は暗くなってからからは外出したがりません。それというのも幽霊や妖怪やなんやかやがこわいからで、夕方遅くから出発させるのはむずかしいのです。』
 玉川と小国で牛を調達しているが、黒沢到着時と市野々までの交通手段については言及していない。しかし、牛や背負子を頼む交渉で『値段をふっかけてきた』とすれば、当然のことである。市野々まで行ったとしても帰りは真っ暗になるのだから。
 8月5日黒石での記述には、「馬子は暗くなってからは二倍の料金をもらってもいやだという」(要旨)と記している。

 『泊まれるほど清潔な家はなく、わたしは石に腰を下ろし、一時間あまり人々について考えました。』
 この時点では雨は止んでいたものと思われる。

 『一人の女性が「酔っ払って暴れながら」ふらふらと歩いています。』〔一人の女が泥酔してよろよろ歩いていた〕(高梨健吉 訳)
 『ふらふらと歩いています』は家の中ではなく外を歩いているという表現かと思うが、他の地域のように外人珍しさの余り外に出てきたのでないか。

 『それでも品のない服装をしたある女性は、ふつう客が休憩した場合に置いていく2銭か3銭を、どうしても受け取ろうとしませんでした。わたしがお茶ではなく、水しか飲まなかったからというのです。わたしがむりやりお金を渡すと、その女性はお金を伊藤に返しました。名誉挽回のできごとにわたしはとても慰められました。』
 酔っ払いの女性と品のない服装の女性は別人と考えられ、後者はこの農家の人で値段をふっかけた人々の一人であろう。

↑黒沢集落通り

↑黒沢峠一里塚

  『沼(黒沢)からここまでの距離はたった一里半ですが、険しい朴ノ木峠(黒沢峠)を越えます。この峠は何百もの粗い石の段々を上り下りし、暗がりに越えるのは愉快なものではありません。』

 『峠の麓で立派な橋を渡って山形に入り、それからまもなくこの村(市野々)に着きました。』
 バードの混乱ぶりはまだ続いており、立派な橋とは玉川を出ると直ぐの「玉川大橋」のことであろう。往時この橋は小国、手ノ子の大橋とともに「三大橋」といわれていた。

↑玉川大橋(萱野峠)




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