越後米沢街道・十三峠交流会


イザベラ・バードが難儀して越えた十三峠(越後・米沢街道)の足跡を辿り、130余年の昔に遡ってみました。文は「イザベラ・バードの日本紀行」時岡敬子訳、発行所轄u談社より引用。『 』内で示す。
一部「日本奥地紀行」(平凡社)高梨健吉訳を併記した。


■イザベラ・バード

イザベラ・バード Isabella Lucy Bird (1831〜1904)

 イギリスのヨークシャー州で牧師である父エドワードと母ドロシーの間に長女として生まれ、3歳下には妹ヘンリエッタがおり、旅行記は妹に送った手紙をもとにしたものである。   
 バードが初めて海外旅行にでたのは、は1854(安政元年)年、医師に転地医療を勧められカナダやアメリカ合衆国を巡った22歳の時である。
 1878(明治11)年、47歳の時初めて日本を訪れ脊椎の痛みに耐えながら北日本・蝦夷・関西を旅し、マレー半島やカイロ等を経て帰国し、1881(明治14年)年にジョン・ビショップ博士と結婚しビショップを名乗る。1904(明治37年)年エディンバラで死去、満72歳であった。
>何故旅先に日本を選んだのか
>旅行の装備


何故旅先に日本を選んだのか
 『わたしは母国を離れて前にも効果のあった方法で健康を回復するよう勧められ、日本を訪れることにした。気候のすばらしさよりも、日本には新奇なものがとびきり多くあり、興味がつきないはずだという確信に惹かれてのことである。』
 「日本アジア協会紀要」を今回の旅に持参しているが、この中にはチャールズ・H・ダラスの「置賜県収録」(日本アジア協会会報に発表して米沢を広く海外に紹介した論文)が掲載されており、この影響も大きい。また、母国ではチャールズ・ダーウィンはじめ、いろいろな方からの助言があり、最終的には、欧米人が未だ足を踏み入れていない未踏の地、アイヌを訪ねることが今回の旅の大目的であったと思われる。

旅行の装備

↑ハイジアパーク南陽所蔵
 バードの荷物は110(約50s)ポンド、(新潟から函館まで、船便で1個荷物を送り、その後は約29sとなる)伊藤は当初の量から12(約5s)ポンドに制限された荷物。
 バードは折りたたみ椅子、ゴム製浴槽、シーツ、折りたたみ式ベッド、ブラントン氏の大判日本地図、イギリスの「アジア協会紀要」数冊、お金(紙幣と銅貨)、通行証、防水紙の合羽や油紙など、他に食べ物少々。
 ハリー・パークス卿から、馬は買わないほうがいいとの助言があり、乗り物は全て現地調達をしているが、苦労は耐えなかった。

ハイジアパーク南陽所蔵(当時の服装例)→


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