「越後米沢街道」は山形県置賜地方と新潟県下越地方を結ぶ街道で、伊達稙宗(たねむね・正宗の曽祖父)が1521年に大里峠を開いたのが始まりといわれています。この街道には大小13の峠があることから別名「十三峠」と呼ばれています。
平成8年には文化庁選定の「歴史の道百選」に選ばれ、平成20年には「日本風景街道」に登録されました。
現在、十三峠が通る山形県川西町・飯豊町・小国町・新潟県関川村の2県3町1村では、各組織がこの古道を活用した地域おこし活動に取り組んでいます。
置賜と越後を結ぶ道は、長い間に幾度かの変遷を続けてきた。
越後米沢街道は、山形県米沢市の大町と新潟県関川村を結ぶ長約70kmの街道である。別名「十三峠」とも呼ばれており、山形県川西町小松と新潟県関川村下川口の全長約60kmの間には大小13の峠が存在する。
この峠道は、大永元年(1521年)に伊達14代の稙宗(たねむね)が、大里峠を開いたのが始まりである。それ以前は、田代峠という標高700mを越えるルートが使われていたが、大里峠が開削されたことで標高487mの山形・新潟の県境を越えるルートとなった。
その後、順次東側のルートが整備され江戸時代の初めには十三峠が成立したといわれている。上杉藩により、宿駅・伝馬制度が整うと、ますます街道の重要度が高まり、最上川舟運と併せ、置賜の経済活動を支えるようになり、長期間にわたって置賜と越後を結ぶ幹線道として重要な役割を果たした。米沢方面からは布などの材料となる青苧、煙草、米などが運ばれ、帰り荷は鉄、塩、肴類、綿織物などであった。交通手段は主に馬であったが、次第に牛方と背負子に代わっていった。
度々十三峠の改修工事が行われ、幾つかの峠に今もる敷石は、荷遅れを出さないために行われた道普請によるもので、古の道として往時の面影を残す峠が多い。
この峠道は戊辰戦争の舞台となり、伊達政宗や五郎八姫、良寛なども通ったといわれる、正に歴史の道である。また、「日本奥地紀行」(平凡社)で知られるイギリスの女性旅行家イザベラ・バードが難儀して旅をした行程のひとつでもある。
明治17(1884)年に、山形県の初代県令である三島通庸により、いわゆる小国新道が開通したことで十三峠の役目は終わる。
平成8年には文化庁選定の「歴史の道百選」に選ばれ、平成20年には「日本風景街道」に登録された。現在、各峠で組織をつくり、この古道の維持管理やイベントを行うなど、地域おこし活動に結び付けている。