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街道の宿場街道の宿場

 越後米沢街道では、江戸時代上杉藩の時代に宿駅制度が確立された。旅人の休息場所となる旅籠や茶屋、人馬の継立などを担う問屋を中心として、街道の整備とともに宿場のある集落も発展していった。
 ここでは、旅における重要な拠点となった越後米沢街道沿いの宿場を紹介する。


小松 (山形県川西町上小松)

 諏訪神社の門前町として古くから開けた町である。また、城下道、糠ノ野目街道、宮内街道、中街道、西街道、越後街道と四方向への要路であり、特に、越後街道によって、物資や人の往来が盛んな土地であった。
 上杉時代の初期、領内に「宿場の制」が定められ、宿場には伝馬制度が義務づけられた。そのため、伝馬役と御役町を設け、周辺には旅籠屋、店、市場などの町場が発生し、問屋、肝煎は金子一族が務めた。


松原 (山形県飯豊町松原)

 松原村はもと添川村の一部であった。西原と呼ばれる原野に慶長11(1606)年町屋敷を作る計画を立て、添川村肝煎本田加茂右エ門が先に立って実施、西原を改め「松原」と称し一村とした。その後、寛文6(1666)年松原を通る荷物の駄賃問題で訴訟し願いが叶い宿場として指定された。宿場の家並は、一筋道で3町27間に及ぶ町並みで、3畝から5畝の屋敷が区画され中央には水路があった。また、須田家が肝煎と問屋を兼務していた。


手ノ子 (山形県飯豊町手ノ子)

 松原宿から23町、手ノ子大橋を渡ると「手ノ子宿」である。上杉藩の初期、越後街道に宿場が設けられた中でも重要な宿場であった。手ノ子宿の街路は小松と同じく城下を思わせる鍵形で町上、町中、町下の3区とそれに付随する南町と北町があり、町上にあった小学校跡地脇の高台には西館跡の堀と土塁をみることができる。慶長期(1596〜1624年)から代々湯村家が問屋職についていたが、後に横山家が享和3(1803)年に問屋職を受け継いだ。

↑町下入口
↑現在の横山邸。昔を偲ばれるたたずまいである

落合 (山形県飯豊町松原)

 明治以前には25戸で、茶屋3件、宿屋2件、馬宿1件で宇津峠の麓の村として栄えた。峠の登り口に茶屋兼宿屋があった。通称「落合の餅屋」と呼ばれアンコの搗き入れ餅が評判であった。この峠を登ろうする者は、ここで一息入れ、アンコ餅で英気を蓄え、下った者は無事に着いたことに胸をなでおろす憩の場所であった。
左写真の落合神社には、現在は宇津大明神が合祀されている。


間瀬 (山形県小国町間瀬)

 間瀬は古くは22戸あり、「峠の村」として輸送に、休養に大きな役割を果たしたといえよう。この村は木炭の産出が多く、冬は背負って列をなし落合まで運び生活の大きな支えでもあった。やがて、鉄道の開通等で峠の村としての役割は終わった。

間瀬の民家の側から大久保峠へ通じる道があったが、今は米坂線と国道に分断され古道は通れない。
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

沼沢 (山形県小国町沼沢)

 沼沢宿は寛永期(1624〜1644年)に開発され、少し遅れて駅制化されたものであろう。沼沢の旧道は間瀬川に沿い見川屋前より村中橋を渡れば宿場の中心問屋場に着く。正保の絵図によれば一町の間に24軒の家があったと思われる。最上屋(佐貝家)が肝煎と問屋を兼ねていた。
 また、沼沢、白子沢は小村で人馬は少なく農作業もあり、月の半分は各々宿継を休み農作業に精励するような定めであった。
 問屋であった最上屋の隣の多福寺には、文化財の「欄間」や、米沢藩第14代藩主茂憲が宿泊した記録が白沼小中学校にのこされている。

享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

白子沢 (山形県小国町白子沢)

 白子沢は小国→箱口→白子沢→小坂(飯豊町)への道に発生した村で、そこへ越後街道が開通した。
 上杉の初期、宿場設置の頃は、既に戸数32戸の村に成長し宿場の受け入れも容易であったであろう。最上屋(遠藤家)が肝煎と問屋を兼ねていた。
 また、白子沢は沼沢と同様な小村で人馬は少なく農作業もあり、月の半分は各々宿継を休み農作業に精励するような定めであった。

享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

桜 (山形県小国町桜)

 正保の清帳には小白子沢と書かれている。桜は宿場ではなく、白子沢→市野々間1里30町「峠の村」とし休息所とされたものであろう。旅籠屋2軒、茶屋1軒が営まれていた。
 現在はこの集落はなくなっており、小屋を数軒残すのみとなっている。

桜地内に鎮座する十二山神神社

市野々 (山形県小国町市野々)

 大永元(1521)年伊達稙宗により大里峠が開削されて以来、十三峠の「峠の村」として役割を果たした。
 市野々と小国の間には宿継法が定められていて月の半分は宿場業務から解放されたが、戸数の増加に伴い定宿場に指定された。市野々の問屋兼肝煎は伊藤甚九郎であったと思われる。その後、宝暦のころ高井家に代った。
 今は、集落は移転し「白い森おぐに湖」というダム湖になっており、夏場には集落跡を見ることができる。
 市野々宿は「日本奥地紀行」によるとイザベラ・バードが宿泊し、「感じのいい勤勉な村」と表現した地。バードは明治11年7月12日夕暮れに黒沢峠を越え、市野々の岩船屋(屋並図の黄色枠内)に泊まったといわれる。翌日桜峠で、4頭ずつになって荷物を運ぶ何百頭もの牛と出会う。

昭和30年代の市野々大橋
写真中央の松の木辺りが古道であり、「鐙坂」と呼ばれていた。
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

黒沢 (山形県小国町黒沢)


 昭和の旅籠「中通屋」
 昭和中ごろの集落  


バードが一服したと思われる村上屋
 黒沢は上杉時代小国〜市野々の間宿として利用されていたようである。
 黒沢から小国への道。江戸初期、越後街道の本道は、正保2(1645)年の清帳にあるように、種沢入口から横川岸に下り南蛮淵の下手のコエ場を渡り芹出に出て川を渡り木落に出る方法と黒沢から横川を渡り松岡に出る路線であったが、降雨増水のときは「川止め」されるので、その後、種沢から杉沢そして高鼻峠を越え小国に至る道を改修し公的な輸送ルートとした。
 村の発生は古く文禄4年(1595)には8戸(32人)、文政10年(1827)には18戸(104人)で2世紀前の戸数は現在とほぼ同じであるが、人口は倍近くと多かったようである。
 集落内には山岳信仰の飯豊山碑と湯殿山碑、巡礼信仰の三十三観音碑と六部塚があり村人の厚い信仰心がうかがえる。

黒沢集落の入口(黒沢橋付近)にあるカヤの木は町指定文化財である。
樹高22m、幹周4.6m、樹齢およそ250年
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

小国 (山形県小国町小国小坂町)

 小国という集落はおよそ三つに分けられる。御役屋を中心とした「家中」通常坂町と呼ばれる区域。
次はそれに続く八木沢橋までの家並みが小坂町。上杉の初期、宿場の設置をみるようになると、小国は交通、軍事の重要な地となり小国橋の東方に町が形成され向町又は粡町と呼ばれる地域となった。

享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

足野水 (山形県小国町足野水)

 足野水は平家の落人といわれる佐藤治右エ門家が身分を隠し隠棲していたものであろう。上杉の初期、慶安のころこの地に土着し、上杉から宿場取り締まりを命ぜられ、地域の開発に努めた。


地名の由来となった伝説が残る「竜ヶ岳」。
竜ケ岳頂上には池の跡があり、池には竜が住んでいた。竜は村に下りて遊ぶうちに、雌馬に恋し連れ去った。何年か過ぎ老人が山へキノコ採りに行き五色に輝く、三本足の馬に出合った。こんなことがあってから、村の名前を「足三つ村」と呼び。今では「足野水」と書かれるようになった。
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

玉川 (山形県小国町玉川)

 玉川宿は大里峠の「峠の村」として、領境警備の村、交通、物資の輸送で重要な地点として重視された。
 上杉の時代に「宿場の制」が設けられ、旅行者のための宿泊、休息施設や番所が設けられ旅人の監視、農民の逃散を監視、また禁輸品の防止、役銭の取り立てなどの業務を行った。また、良寛が宿泊した寺といわれている「玉泉寺」や、町文化財である「木造観世音菩薩」と「烏天狗像」がある。

大里峠入口は玉泉寺脇を通る
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】

畑番所(畑村) (新潟県関川村沼)

 畑番所は大内淵番所を通らず畑に来る者、すなわち脇街道からのものを取り扱う番所で、いわば「間道抜け」を取り締まる任務を与えられていたところと思われる。畑村は関川郷士史料によれば享和元(1801)年家数3軒、人数16人となっている。明治7(1874)年銅鉱が発見され活況を帯びた、その後、昭和20(1945)年廃坑となった。
 写真は畑鉱山跡。


沼 (新潟県関川村沼)

 沼は明治3年宿駅に指定されるが、それ以前は「間の宿」として役割を果たしていた。玉川と下関の間は四里二十七町で他の宿駅より距離が長く、大小三ヶ所の峠がある。しかも以前から悪路といわれ物資の輸送等には苦情が寄せられていたため、休息、宿泊のための「間の宿」でありながら、荷物の受け取り、附け送りなどの業務をしていたようである。
 また、沼は戊辰戦争の講和会議が行われたところでもあり、イザベラバードが泊まった所でもあり、街道を往来する人の信仰と憩の場となった。


"沼の板碑"
応永4(1397)年に加地佐々木氏の一族成空(片貝氏)が建立した、高さ2.28m、最長幅1.18m、厚さ0.41mという巨大な板碑。南北朝の争乱の戦没者慰霊のために建てられたと考えられる。この碑の中央蓮華台座の上には月待像が配され、その中に種子バン(大日如来)が刻まれている。

大内淵番所 (新潟県関川村大内淵)

 慶長2(1597)年の「越後国瀬波郡絵図」には家数1軒と記され、万冶元(1656)年「女川組本田畑検知寄目録」に大内淵口留番所金子仁右衛門・飯塚次右衛門の名があり、口留番所の所在を知ることができる。ここ大内淵は羽越の主街道(米沢口)に備えた越後の番所である。位置は道の北側の西端「金子宅」である。後ろは荒川の断崖、前には山地を控え「抜け荷」(密貿易)のできない好適の場所である。


下川口 (新潟県関川村下川口)

 下川口村は大石川が北流し荒川に注ぐ合流点の近く、右岸に位置している。峠の登り口であり前に大石川を控えている。雨が降り増水ともなれば、橋梁は流出し通行、物資の輸送に障害を来し、農民は持ち舟を出し渡船の便を図ったという。そこで、この村には旅人宿や物資が集まるようになった。現在は裏通りとなったが、趣のある古い家並が残っている。


上関 (新潟県関川村上関)

 上関宿は慶長2(1597)年の越後国郡絵図に「せきかわぐち」とあり、翌3年にはこの地に口留番所が設置され、宿駅として格好の条件を備えていた。上関村は宿駅業務を分担させてほしいと村上藩に申し出て、慶長19(1614)年より文化年間(1804〜1818年)まで下関宿と15日交替で宿継ぎを行った。


"上関口留番所跡"
慶長3(1598)年、村上頼勝の命により清水右近次が上関口留番になったという。以後、幕末 まで清水氏が番所役人を務め、通行人や荷物な どを取り締まった。遺構などは残っていない。

下関 (新潟県関川村下関)

 下関村は慶長年中(1596年〜)頃にはすでに「せきしもまち」と呼ばれており、町形成が早く、関川の中心村だった。この頃には上関村と半月交代で宿駅を務めており、宿駅村として著しい成長をしていた。検地の記録によると、1597年〜1659年の62年間で村高が7倍以上になっており、いかに急速に発展したのかがわかる。その後、親元宿としての位置から離れる事態もあったが、文化年間(1804年〜)頃には一村引受けで宿役営業を行うに至った。


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