助けの制                     
背負子(しょいこ)                     
宿場医師                     
小国蔵米                     
 運送用として牛馬のほかに背負子がある。撥子(はねこ)又は揚子(あげこ)とも呼ばれ、近隣の宿場間を往来するものもあり、長道といって10日から2週間を費やして、置賜方面と越後各地との運送に当るものもあった。

 物資の輸送は牛馬だけでは運びきれなかった。特に越冬物資を運ぶ降雪前は忙しく、冬期ともなればすべての輸送は背負子に頼るほかはなかったが、雪崩で亡くなるものもいた。


 荷物を背負って生計を立てていることを「背負稼(せおいかせぎ)」というが、背負う方法は
@荷縄をもって直接肩に担う方法と
A木製の枠−背負い梯子(やせうま)につけて背負う方法がある。
強者はAの方法で冬期積雪のときさえ40貫(150kg)を担って桜峠を越し、32貫(120kg)を背負って宇津峠を越すものがあったといわれている。
 
 背負子は手ノ子と小国に最も多く100人くらい、沼沢、白子沢にはそれぞれ30〜50人ぐらいが背負稼ぎに従事していたという。また、手ノ子では運送の取り込むときは、近くの村々から150人くらいかり出して、宇津峠の輸送に当ったといわれる。背負子専用の背負子宿もあった。

青苧(あおそ)      
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 この地方では「からむし」または「お」と呼ばれた。麻、大麻などの一種で多年生の草本である。
 古くからこの地方一帯に栽培されていたようで、文禄4年1595年蒲生時代に記録された「邑鏡」によれば、漆、桑、紅花、青苧はともに御役作物として栽培されていた。

 青苧は古くから衣服の原料とされた。7月初め刈り取って、茎を水に漬け、それを筵(むしろ)で覆って蒸し、表皮を取り去って繊維を取り出し、それをより合わせて糸とし、織物に作った。糸をとった滓(かす)は、打って塵などを水に流し、それを乾かして綿とした。江戸初期、木綿の手に入る以前に綿(わた)といえば、これを指したものである。

青苧   

越後米沢街道で荷替場として広く知られ利用された場所は、黒沢から黒沢峠への登り口の平坦地と沼から大里峠へ少し登ったところの平坦地である。それぞれ峠を控えているので、ここで一息を入れ、左右の荷物を交換するのであった。

 また、一駄の運賃は一定であるが、一駄ごとの重さが品物によって異なり、不平が絶えなかったことから、仲間同士で荷駄を交換することもあった。さらに上り荷と下り荷を交換して駄賃を精算し折り返すこともあり、顔見知りがあれば日帰りする牛方・馬方もいた。いわば、ここは問屋なしの荷物中継所として利用されていた。
上り荷・下り荷  
駅伝が民間で利用できるようになると、宿場は今日の運送会社と同じような仕事をするとと
もに、旅行者の休息、宿泊などの業務を担当することになった。

 問屋は、伝馬所、または馬締ともいい、その駅の人馬を取り扱う所であり、貨物の継ぎ立て、宿泊・休息の段取り、人馬の手配が主なしごとであった。問屋場を代表する役人は問屋役で、その下に年寄役があってこれを補佐し、年寄の下に帳付、馬指(馬差)、人足指、七里役、泊帳役、茶番役、会所詰、お出迎番、人馬宰領等宿場の大小によって名称役割は若干異なるものの、このような組織になっていた

。越後米沢街道のように小さな宿場でも、問屋役と帳役、馬指(月行持)の三役は、問屋にいて事務を取っていたようである。

問屋場には、大きな秤が備え付けてあり、荷物の目方を量り、所定の賃銭を定め、人馬のぎ立てや貨物の斡旋を行った。また、馬指は、人馬の割付の外に、運送に関する同業者間の取り決めを守るよう監視することも仕事であった。
 
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渡邉三左衛門                     
渡辺家はもともと村上藩の家臣であり、その子孫が、下関で廻船業や酒造業、新田開発などで富をなした。財政難で苦しんでいた米沢藩に幕末まで融資をして、米沢藩勘定奉行格の待遇を受けた。
 全盛期には75人の使用人を抱え、1,000haの山林を経営し、700haの水田から10,000
俵の小作米を収穫したといわれている。現在ものこる屋敷は、国の重要文化財や名勝に指定されている。

沢方面へ運ばれる荷を「上り荷」、越後方面へ運ばれる荷を「下り荷」と呼んだ。
上り荷は主に、塩、鉄、肴(魚)類、茶などであった。
 下り荷は、小国蔵米、青苧、たばこ、馬、漆、蝋燭、灰荷(あくに、草木灰をかます詰めにしたもの)などであった。
荷替場                     
問屋(といや)                     
鉄は、米沢藩では専売制で、他の諸藩と同様、自由販売は認められなかった。中国地方の伯州鉄と雲州鉄を海老江の船上で、藩の出役や渡辺三左ェ門らが受け取り、「御用荷物」として厳重に取り扱われた。米沢城下と小国に藩の鍛冶屋が置かれ、農具や刃物が作られた。
鉄の輸入                     
綱馬(端綱)                     
仙台、南部地方は古くから牧野を保護し、良馬を産出したいわゆる産馬地帯である。この産馬地帯から、雪解けを待って、西奥の越後・越中・越前へ駒市で買われた若駒が運ばれた。牡牝別に7頭を1はずな(端綱)とし、3はずな(21頭)の馬を引いてあるく馬喰(ばくろう)は一人前とされた。
 牝馬は昼引かれ、牡馬は夜引かれた。各駅の牛馬宿は昼夜を通して繁盛し、眠る暇もなかったという。特に多かったのは白子沢の6軒と小国の4軒だったという。

 慶長6年(1601年)の定書では、伝馬荷物は1駄30貫目、駄賃荷物は1駄40貫目までとしている。伝馬荷物は、幕府領主の公用で無賃である。寛永2年(1625年)には、伝馬も駄賃馬も、1駄40貫と定められ、長く駄送の基準となった。

伝馬(テンマ)

40貫

幕府領主の公用。無賃。

本馬(ホンマ)

36貫〜40貫迄

公用及び諸大名が、定賃銀で使用する馬。
主として荷を付けて運ぶ馬。

軽尻(カラジリ)

人が乗って荷を付けないものいうが、5貫目までの荷は許される。人を乗せないときは、本馬の半分20貫目までの荷。

乗懸(ノリカケ)

人が乗って荷物を付けたものいう。
荷物は20貫目まで。賃銭は本馬に同じ。

人足

荷物は5貫目まで。超えれば目方に応じて払う。

 宿々間の賃銭は、それぞれ定められていた。駄馬輸送の困難な冬季は、専ら背負子による
ほかはなかった。延享3年の覚書(井上清右ェ門)では、下のようになっていた。社会情勢が大
きく変わった幕末には、物価高や季節によって、割り増しが行われていた。

区 間

米沢〜上小松

〜松原

〜手ノ子

〜沼沢

手ノ子〜白子沢

沼沢〜市野々

白子沢〜市野々

〜小国

〜玉川

距 離

3里12丁

1里19丁

0里30丁

2里20丁

3里00丁

1里30丁

1里14丁

2里23丁

2里06丁

駄賃

(文)

本馬

138

68

32

175

193

133

115

155

164

軽尻

92

45

22

116

129

89

75

103

110

人足

69

34

11

59

65

44

38

52

55

備 考

手ノ子〜沼沢間 下十五日馬継   沼沢〜市野々下十五日間馬継
手ノ子〜白子沢 上十五日馬継   白子沢〜市野々上十五日間馬継

 実際には、この金額に問屋への保管手数料や宿泊料等もかかる。
例えば、手ノ子から小国まで馬で40貫目(150kg)の荷物を運ぶと463文かかることになる。
文政年間(1818〜1829)の記録をもとにすると、1文が約12円なので5,600円ぐらいだが、この外に問屋手数料や1泊の宿泊料等もかかったものと思われる。

人足(背負子)で5貫目(19kg)の荷物を運ぶと155文かかることになる。155文だと米(上白米)を4.3升(6.5kg)買えた。

賃銭(駄賃)                     
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宿駅制度は、戦国時代に外から侵略の恐れのない群雄の領地内で発達した。越後米沢街道では、伊達家により大里峠が開かれてから、軍事・経済の面から峠の整備が進み、江戸時代上杉藩の時代になり、宿駅制度が確立された。

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棒鱈、カラカイ、スルメ、イカ、身欠にしん、昆布等の乾物と樽鱒秋味(鮭)筋子、糠いわし等桃崎浜の背負子が、小国までの間を男同士或いは女同士6人のグループを組み、商い荷を運んだ。

 荷は、浜の乾魚や塩魚と塩魚問屋から受けた鰊、鱈、カスべ、ほしこなどであった。ほとんど年中無休で、夜中、桃崎浜を出て、沼、畑を過ぎ、大里峠を一気に越え、玉川を過ぎ、萱峠の背負子宿に泊まり、翌朝早く小国に出るのが通例であった。

 小国では、荷をそれぞれの得意先に入れ、帰り荷としては、たばこが主で、ほかに小豆、ぜんまい、わらび、わらび粉、栗など山の産物を仕入れて帰った。
上り荷下り荷ともにその量は、男で40kg以上、女でも30kg以上あったという。帰りは、上関の宿に泊まり、翌朝早く、桃崎につくという行程であった。


米沢方面の御城米は、古くは二井宿を越して阿武隈川から江戸に送られたが、舟運の発達とともに最上川から運ばれるようになった。

肴(魚)類                     
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米沢方面の御城米は、古くは二井宿を越して阿武隈川から江戸に送られたが、舟運の発達とともに最上川から運ばれるようになった。小国の御蔵米は、米沢に運ぶことはなく新潟出しが普通であった。
 享保15年(1730年)に米沢、上杉藩では、下関の渡辺家に対し、御用金を申し入れ、その返済に小国の蔵米をもって充てる契約をしている。宝暦2年(1752年)から9ヵ年で22,286俵が渡辺家に運ばれた。これを平均すると牛馬の足の立つ6月〜10月まで毎日8頭余りの馬が、往来したことになる。
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宿駅                     
馬市             
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 青苧は、越後、奈良、近江、能登などで広く栽培されていたが、特に出羽、最上、米沢、会津などは産地として知られている。領内では生産過剰になり、藩はこれを買い上げ奈良方面に売りさばいたが、品質が良いので利益を得たため、藩の専売品とした。
 その後、農民の生産意欲を揚げるため、自由販売を許し、近江、越後、能登、奈良などへ運ばれた。最上川舟運の発達により、関西方面は、舟で運ばれるようになったが、越後(小千谷)へは、十三峠を通って運ばれた。

 寛政のころから青苧の運送はいよいよ増大してきたが、道路も悪いので荷物輸送は渋滞を来たし、わずか12〜13里の場所(十三峠)を40〜50日かかったという。
 降雪前に短期間で運ばなければならない重要な荷であることから、宿駅問屋は苦労し、私財を投げ打っても峠道の改修を行ってきた。このことから、米沢方面の人たちから、十三峠は「青苧の道」とも呼ばれていた。

 上杉謙信の軍事的な強さの一つは豊かな経済力で、それを支えたものは米、金銀、青苧および越後上布などであった。青苧は、京都・大阪・奈良方面に送られたが、風通しがよく汗が布につかない快適な衣類で、貴族の礼服は越後布に限るといわれた。
米沢藩では、各宿駅に布達して街道を通る旅人が不慮の病気、災難に遭った場合にはねんごろに看病し、人の命を大切にするようにとの心得を達している。もし、山中でそうしたことが起こった時、それを収容し、手当てをしてやる所が「助け」である。宇津峠の頂上、大里峠の八分目ごろと蓬生戸街道の上り口(相平)など大きな峠を控え、人里まで遠い所に設けられていた。手当てとして二人扶持を支給されたとある。

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 寛政4年(1792年)上杉藩は、宿場医師の制度を設け、領内の農村の中心地7箇所に医師10人を配置し、領民の保健に努めた。越後米沢街道沿いでは、上小松と小国に置かれた。小国では、小林家の由緒により、小林周逸というものが小国御役屋御用医師として配置され、享和2年(1802年)亡くなるまで給されたとの記録がある。
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馬は、乗用、荷駄用、軍用として、また、駅伝、宿継、農耕用として広く使用され、牛とともに我が国の重要な家畜であった。馬市は、今日では見られなくなったが、昔は各地で開かれたものである。上杉藩では、正保2年(1645年)初めて赤湯に馬市を開き、慶安3年(1650年)、領内の馬市開催の日を次のように定めた。

3月25日 から 4月11日まで  長手村          4月12日 から 4月28日まで  赤湯村

4月29日 から 5月15日まで  小出村(長井)      5月16日 から 6月 2日まで  中小松村

6月 3日 から 6月19日まで  馬苦労町(米沢)    6月20日 から 7月 6日まで  亀岡村

7月 7日 から 7月23日まで  糠野目村           7月24日から8月10日まで栖之島(州ノ島)

8月11日 から 8月27日まで  上小松          8月28日 から 9月14日まで  鮎貝

9月15日 から 9月 晦日まで 宮村(長井)

1市は16日間とし、領内11箇所において行われた。小松の馬市で買われた2歳駒の中には、雪解けの越後街道へ向かい、越前・越中・越後へ運ばれたものも多いという。

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