講演会 米沢藩(上杉家)と関川村・渡邉家の関わり
平成28年10月5日(水)表記講演会が開催されました。 本年度は、「越後米沢街道を活用した北陸地方との交流」をテーマとして 「やまがた社会貢献基金」の支援を得て実施されたものです。
この講演会の目的は「越後米沢街道」が藩と藩を繋ぐ役割をも果たしてきたこと、具体的には「米沢藩」が「渡邉家」より絶大な支援を得て、財政を再建したことにあげられます。そのいきさつや歴史的な背景などについて、渡邉邸の見学とあわせて実際に本家本元で実施されました。参加者は越後米沢街道・十三峠交流会会員も含めて32名でした。講演は米沢市の「おしょうしなガイドの会」副会長の前山みゑ子さんにお願いしました。
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≪講演内容≫
「おしょうしな」とは、上杉家に仕えた所だけで使っている方言で「ありがとう」の意味。米沢や置賜地方では当たり前のように使われている。
この越後米沢街道・十三峠といわれる街道は、米沢では「越後街道」と呼ばれている。大変険しい街道であった。約70kmで、いまから五百年ほど前、江戸時代は上杉家が抑えていたが、その前7年は蒲生氏が、その前212年は伊達家の領地であった。米沢藩のみがこの街道を整備したのではなく、ここ関川村の渡邉家でも、街道の道幅を広げるなどの大改修にも力を入れている。
米沢への上り荷は「塩」「お茶」「鉄」「海魚」などが運ばれていた。下り荷として「米」(新潟の港から北前船)「たばこ」「青そ」「うるし」等であった。
(上杉家の歴史)
上杉家が米沢を治めるようになったのは関ヶ原の戦いの2年前で、上杉景勝公は豊臣家の家来として戦ったが、敗戦したため、120万石から30万石に減らされた。さらに後継が無くお家断絶のため15万石となった。戊辰戦争の時には3万石となってしまっている。
(上杉鷹山公について)
九州高鍋藩で生まれた。実際には江戸で生まれ育った。
10歳の時に上杉家に迎えられた。米沢藩は非常に苦しい時代があった。治憲公は17歳で藩主になっているが、35歳で隠居して米沢藩の立て直しに尽力した。
「成せば為る。為さねば為らぬ何事も。為さぬは人の為さぬなりけり」という言葉を残した。72歳で亡くなったが、その時までに、受け継いだ借金16万両〜20万両(約400億円)はほぼ返していたが、渡邉家からの借金を返し終えたのは江戸末期と言われている。
(上杉家の借金)
自然災害や参勤交代、短命藩主で、ことあるごとに幕府の言いなりに金を使わされた等の理由により、借金が膨大に増えていった。 そのために、鷹山公は出費を抑える「一汁一菜」等の大倹約をした。また、金の入る取り組みとして「桑、うるし」等を植栽し量産できるようにした。桑の木が一番の成果であり、桑の葉で養蚕を行い繭を作った。そして、機を織ったのは上杉武士の奥方であった。皆協力して「米沢織」として世に出した。「おたかぽっぽ」「成島焼」等もその当時作ったものである。農業も振興し、自ら赴いて農地を増やしていった。
また、米沢に藩校「興譲館」を創った。年寄を敬い、少子化対策(子供を産むことを奨励)、「看病休暇」「草木塔の建立」「ウコギ栽培」「米沢鯉の養殖」等を実践した。
(米沢藩の財政)
米沢藩では藩を運営するため、各地区、各人より借金をしている。
特に酒田の本間様、越後の渡邉家、三輪家からは大変な借財をしているが、特に渡邉家には語りつくせないほどの恩義を受けている。
渡邉家は上杉家のために、近隣からかき集めても貸してくれた。
(渡邉家への借金の懇願)
1778年、上杉家老竹俣当綱(たけのまたまさつな)が藩の苦しい実情を訴え、渡邊家の藩政再建のためにお願い状を持って渡邉家に懇願した際の書状が残っている。また、上杉家から渡邉家にいただいた「弾弓」をいただいた。
(上杉家と渡邉家の固い絆)
1渡邉家から借金をしてから返済するまで150年の歳月がかかっている。
2渡邉家は米沢藩に対して、誠心誠意尽くしてきた。
3上杉家は渡邉家に常に感謝の意を忘れなかった。
4渡邉家や鷹山公の人情の深さが深い縁を作った。
5今もそのような思いが両地区に受け継がれている。
(鷹山公と渡邉三左衛門の共通点)
身分の高低に関わらず、人を大切にし、人材育成に力を注いでいる。優能な人材には積極的に投資し、藩や家のために尽力してくれるよう導いた。将来に備えたお金の使い方の模範となっている。
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