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大里峠大里峠 (おおりとうげ)


峠のポイントガイド / 古絵図 / アクセスマップ


山形県小国町玉川と新潟県関川村沼を結ぶ峠。
玉川側はほぼ送電線に沿ったコースで、峠頂上を境に山形県と新潟県の県境を越える。

標高は478mで十三峠では宇津峠(491m)に次いで高い。沼側は小沢に小さな橋が架かる変化に富んだコースだが、沢沿いの道は崩れていることもあるため注意が必要。

大永元年(1521年)に伊達稙宗が大里峠を開削したことが十三峠の始まりであり、順次東側のルートが整備されていった。嘉永元年(1848)に大里峠の越後側で行われた道普請では、一間の道幅を三間に広げ、両脇に側溝をつけ、泥道になる所には長さ四尺・厚さ五寸の石2360枚敷いたといわれ、今でもわずかに往時の石が残っている。

夫の戒めを破った女性が大蛇となり、この地に現れたという大蛇伝説が伝えられており、峠頂上の地蔵堂にはこれに基づく「大里大明神」が合祀されている。


峠のポイントガイド




地図上の数字をクリックすると場所の説明ページに飛びます。
 庚申塔

庚申信仰は十干十二支(干支)の庚申(かのえさる)に当たる日に行われる信仰行事である。庚申の日の夜、寝ている間に、人間の体内にいる三尸虫が、天帝にその人間の罪を告げるとされていることから、それを避けるために夜通し眠らずに過ごす風習があった。この庚申講(待)はかつて盛んに行なわれていたが、物資不足の戦争中に廃した所が多い。庚申は男だけの祭りで、女人の参加は禁じられていた。庚申塔は大小種々の形があり、多くは文字塔で「庚申」または「青面金剛」と彫られている。
 凶霊供養塔

天明元 (1781)年12月17日手倉沢にて雪崩が発生し、9名が亡くなった。73年 後の前回と同じ日、嘉永7年12月17日再び雪崩で2名の犠牲者を出している。この地に不幸な人たちの霊を供養するため、この碑が建てられた。安政2年6月玉川の宿屋、国仙屋七右エ門の世話で、越後の吉井屋兵右エ門の建立である。
 玉金鉱山跡地

大正8年創業。大正年間から昭和の初期には優良な金鉱が産出された。
大里峠の周辺には玉金鉱山、玉明鉱山、畑鉱山などいくつかの鉱山跡が見られる。
 助跡

伊藤久左エ門が三代に渡り宿屋兼茶屋を営んだところである。 「助」では藩からいくばくかの手当てを受け、峠の通行で難儀をする人たちを手当てし介抱した。
 地蔵堂

峠頂上にある社には地蔵さん、観音様、大里大明神が祀られている。現在は関川村で管理しているが、旧寄附面附帳によると玉川の有志によって建てられた。


<峠の地蔵さん>
この地蔵は「災難除け」の宝珠を持っ て風雪に悩む人々を守ってくれた慈悲深い地蔵である。

<観音像>

榎峠の頂上に祀られている観音様と姉妹であると言われている。

<大里大明神>

この大里大明神は古くから伝わる「大里峠の蛇体の伝説」に基づくものといわれる。
碑は高さ90cmほどの自然石で、寛政12年庚申7月吉日、下関村佐藤富之助世話人、畑村船山清次郎、神主吉田大和守吉定と刻まれている。
 展望地

峠頂上の地蔵堂の裏に作業道があり、これを登ると鉄塔下の展望地に至る。
ここからは眼下に関川村、日本海、北方に粟島を、西南には「蛇枕石」と呼ばれる岩山望むことができる。


<蛇枕石>

峠頂上より西南にそびえる岩山は「蛇枕石」と呼ばれ、大里峠を七巻半した大蛇がこれを枕にしていたと伝えられる。
 柄目木茶屋跡

附近には湧き水が枯れることなく流れており茶屋としては最適の地であった。地名の由来は、ブナの大木がうっそうと生い繁り、木々にはツタが絡む原生林で人の立ち入ることは困難極める地からと言う説もある。現在この周辺は杉林となっている。

古絵図


正保絵図 【正保2(1645)年作成、市立米沢図書館所蔵】


享和絵図 【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】


絵図 【年代不明、高橋康氏所蔵】

アクセスマップ


山形県小国町玉川側

新潟県関川村沼側

※わかぶな高原スキー場~畑鉱山跡までの林道は道幅が狭いため自動車での通行注意


  • 各峠の紹介


越後米沢街道・十三峠交流会 事務局
(NPO法人ここ掘れ和ん話ん探検隊)越後米沢街道・十三峠

〒999-1337
山形県西置賜郡小国町大字新原124
TEL/FAx 0238-62-5955
(平日9:00~17:00)
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